恵林寺の開創は、いまから700年近い昔にさかのぼります。鎌倉時代の末期、元徳二年(1330年)に、甲斐国の守護であった二階堂貞藤(道蘊)(1267~1335年)が夢窓疎石(1275~1351年)を招き、私邸を改めて禅院にしたのがはじまりとされています。
夢窓疎石は、生前・没後をあわせて七人の天皇から国師号を受け、「七朝の帝師」と讃えられた、鎌倉から室町期にかけての日本を代表する傑僧です。夢窓国師はまた、当時の最高の教養人として、漢詩、和歌に優れていましたが、作庭家として特に有名で、「禅宗庭園」の様式を定めて日本の伝統文化の美の基準を作り出しました。
京都の天龍寺、苔寺(西芳寺)、鎌倉の瑞泉寺、美濃の虎渓山永保寺などには、いまもその築庭になる見事な庭が残され、ここ恵林寺の庭園も、国師の手になる名庭として、国の名勝指定を受けています。
恵林寺はまた、戦国時代の武将、武田信玄(1521~1573年)の菩提寺としてよく知られています。「甲斐の虎」と恐れられた信玄は、若い頃から禅に親しみ、京都から禅の高僧を招いて真剣に修行に打ち込みました。
後に美濃の快川紹喜(1502~1582年)を招くと恵林寺を自身の菩提寺に定め、寺領を授けています。信玄亡き後、織田信長によって武田一族が滅ぼされると、恵林寺も織田方の軍勢によって焼き討ちに遭い、その時、燃え上がる山門の上で、快川国師が「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」と末期の句を唱えて、動じることなく端然と坐禅を組みながら亡くなった、というできごとはよく知られています。
恵林寺はその後、徳川家康(1543~1616年)の庇護を受けながら再建を果たし、徳川五代将軍綱吉の側近であった柳沢吉保が甲斐の領主になると、その手篤い庇護によって寺勢を高めます。
柳沢吉保は武田信玄を尊崇し、自身の先祖が武田家に連なるものであることを自負しており、後に、嫡男である吉里の代になってから、その亡骸は恵林寺に移され、今日、恵林寺は、柳沢吉保夫妻の墓所ともなっています。
今日の恵林寺は、幕末維新の廃仏毀釈の荒波をくぐり、明治39年の火災を乗り越え、第二次世界大戦の荒廃を通り抜けて、関東屈指の禅の名刹としての威厳を保ちながら今日にいたります。