禅寺の喫茶が果たした役割 ― 恵林寺住職 古川老師

THE MATCHA CLUB コラム「恵林寺を訪ねて」第2回。恵林寺ご住職の古川老師に、禅寺の喫茶が果たした役割について伺いました。

 

喫茶の習慣が日本にやって来たのは、記録によれば、天平元年(729)に聖武天皇によって仏教儀式として用いられたものが最初だとされています。 その後、最澄が唐から茶の種を持ち帰って比叡山に植えたといわれていますが、本格的に日本に定着させたのは、禅僧である栄西です。栄西は、建久2年(1191)に茶の種を持ち帰って筑前の背振山に播き、さらに建保2年(1214)には、源実朝のために『喫茶養生記』を著しています。

 

 

栄西はまた、お茶を飲む時に、粉末にしたお茶を茶筅で混ぜる抹茶の飲み方も日本に伝えました。そして、この栄西が伝えた抹茶が文化として定着し、茶の湯の道として日本独自の深化発展を遂げ、千利休を経て世界に広まりました。

茶の湯の道と禅との深い関わりは、このように、栄西に始まります。抹茶の飲み方の源流は中国ですが、今日世界中で嗜まれている抹茶もまた、栄西によって始まるのです。栄西は、日本では「茶祖」と讃えられています。

 

 

さて、喫茶の習慣は、薬用として、儀式用として、そして嗜好品として日本に定着しましたが、日本独自の進化を遂げた「茶の湯」と禅の関わりは、その後も続きます。 茶の湯の道を「佗茶」として完成させたのは、堺の町衆である武野紹鷗と千利休ですが、紹鷗も利休も、ともに禅僧に就いて厳しい修行を重ねました。「佗茶」のもつ深い精神性は、禅との出会いの中で育まれたものなのです。

 

 

それでは、なぜ、ただお茶を飲む、という単純な行為に深い精神性を持たせる必要があったのでしょうか? それは、修行を徹底的に日常化し、立ったり座ったり、食事をとったりお茶を飲んだりといった、あたりまえの一挙一動にも気を抜くことなく悟りの契機を探し求める、という禅の精神に由来します。

 

 

仏教の修行は、瞑想を中心にして行われますが、どれほど日常生活を削り、瞑想の時間に充てるとしても、そこには自ずと限界があります。禅はここで発想を逆転し、日常生活のあたりまえの動作の中に高い集中と緊張をもたらし、日常の全体を修行化したのです。

その結果、日常の一挙一動だけではなく、茶碗や茶釜、茶杓や水指に始まり、茶室、路地...単なる喫茶の道具もまた、修行のための深い精神性を反映し、高度な洗練と芸術性を持つに至ったのです。

 


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