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奈良の名勝庭園「依水園」と「寧楽美術館」

こんにちは、THE MATCHA CLUBです。奈良東大寺旧境内にある依水園でお茶を点ててまいりました。館長の田代さんにお話を伺いましたのでご紹介します。   奈良東大寺旧境内にある「名勝 依水園(いすいえん)・寧楽美術館(ねいらくびじゅつかん)」は、江戸時代延宝年間(1670年~)に作られた「前園」と、明治後期に作られた「後園」、時代の違う二つの庭園および「寧楽美術館」で構成されています。 「前園」は、奈良晒で幕府御用商人であった清須美道清(きよすみどうせい)が客人や要人をもてなす場として、晒し場のあった吉城川べりに別荘を作り、茶室「三秀亭(さんしゅうてい)」と離れ茶室(後に挺秀軒(ていしゅうけん)と命名)を建てたのが起源です。     明治中期に前園は同業者、関藤右衛門の手に渡り、その長男、関藤次郎が明治32年(1899)東側にほぼ10年をかけ茶室と池泉回遊式借景庭園である「後園」を増築し、荒れていた前園の建屋や庭園の修復し明治43年春、「依水園」と命名されました。ここに文人墨客を招き、風雅の道を極める場所としての活用が始まります。 その後、昭和14年(1939)に神戸の海運業者 中村準策(ならむらじゅんさく)の手に渡り、昭和15年ここに財団法人寧楽美術館(ねいらくびじゅつかん)が設立されます。(現公益財団法人名勝依水園・寧楽美術館)。 中村準策が海運事業の傍ら蒐集した中国青銅器、日本の茶道具・書画、韓国の陶磁器等を美術館で公開しようとの計画でした。しかし開戦により実現できず、また神戸の本宅の蔵にあった美術品の大半は昭和20年3月の神戸大空襲で焼失してしまいます。現在の被害を免れて残った約4,000件を展示公開しています。 また、依水園は戦後GHQに接収され、荒れ放題の庭となっていました。昭和28年(1953)返還後、中村準策の孫・準佑(じゅんすけ)が庭園と建屋の修復を開始し、昭和33年6月1日に依水園を一般に公開するとともに、茶室の一部を利用して春・秋の年2回、収蔵品の展示を始めました。     現在ある美術館は昭和44年に東畑謙三氏の設計により建築され、翌年から常設展示をしています。また依水園は、昭和50年に国の名勝庭園に指定されました。トリップアドバイザーでは5年連続星四つ半と判定され、2020年殿堂入りしています。 公益財団法人名勝依水園・寧楽美術館 館長  田代 佳子 -- 依水園は本当に美しい庭園で、また細やかな伝統の建築様式も満喫できる素晴らしい空間でした。 奈良に行かれる際はぜひご訪問されてはいかがでしょうか? ●依水園公式サイト https://isuien.or.jp/

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奈良の名勝庭園 依水園でお茶を点ててきました

奈良の名勝庭園 依水園でお茶を点ててきました

こんにちは、MATCHA Labです。奈良の「依水園」でお茶を点ててきました。素晴らしい名勝庭園である依水園についてご紹介します。 続きはこちらからご覧ください。

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大聖護国寺でお茶を点ててきました

大聖護国寺でお茶を点ててきました

こんにちは、THE MATCHA CLUBです。「仏像41体・令和の大修復プロジェクト」など精力的な活動をされている大聖護国寺にてお茶を点てて参りました。 今回は大聖護国寺についてご紹介します。続きはこちらよりご覧ください。  

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大聖護国寺

こんにちは、THE MATCHA CLUBです。「仏像41体・令和の大修復プロジェクト」の活動をされている大聖護国寺にてお茶を点てて参りました。今回は大聖護国寺についてご紹介します。   大聖護国寺は創建800年を迎えた高崎の古刹です。 徳川五代将軍綱吉の母 桂昌院様とゆかりがあり、寄進された五大明王像・三十六童子(修復中)が本堂に安置されております。 大聖護国寺は、その名の通り、東京の護国寺と深い関係があります。 江戸時代、大聖護国寺の二十四代住職良賢僧正が、桂昌院様に招かれて開かれたお寺が、現在の音羽の護国寺です。 広く知られているように、音羽の護国寺では茶道の大きなお茶会がこれまで何度も開催されてきました。 流派の宗匠による献茶式もあれば、1日に数百人が訪れる大寄せの茶会など、茶道を習ったことがある方にとっては、大変馴染みのあるお寺だと思います。 多くの茶室もあり、東で最も華やいだ茶会の会場として全国に知られています。   音羽の護国寺とご縁のある、こちらの大聖護国寺もそのきっかけになったことも因み、『桂昌庭』と名付けた枯山水のお庭と、茶室を設けました。   拝観に訪れた方々に、茶を喫して頂き、その風情を楽しみながら、高崎の文化や歴史に触れてほしい、という御住職の思いから 築かれました。     今後、コロナが落ち着いた際には、東京の護国寺のように、様々な茶会が開かれ、新たな文化の発信拠点となることを目指しています。 ぜひお気軽にお越し下さい。 ●仏像41体・令和の大修復プロジェクト〜200年の時を経て〜 桂昌院様寄進の五大明王、不動三十六童子修復が現在進行中であります。 皆様のご寄付、お待ちしております。 https://butsuzo-rebirth41.com

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禅寺としての恵林寺 ― 恵林寺住職 古川老師

THE MATCHA CLUB コラム「恵林寺を訪ねて」第3回。恵林寺ご住職の古川老師に、禅寺の喫茶が果たした役割について伺いました。        山梨県甲州市塩山にある乾徳山恵林寺は、開創を1330年にさかのぼる臨済宗妙心寺派の禅の名刹です。 開山は、夢窓国師です。1275年に生まれ、鎌倉時代の末期から南北朝時代を経て、室町時代に至るまでの、戦乱の時代に生きた夢窓国師は、激動のただ中にあって数多くの優れた弟子を育てあげ、生前・没後あわせて七人の天皇から国師号を授るなど、時代を代表する禅僧として知られています。     国師はまた、歌人として和歌に優れ、漢詩人としてもその名を歴史に残していますが、それ以上に、特に作庭家として卓越しており、世界遺産にも指定されている京都の西芳寺(苔寺)、天龍寺をはじめとする禅宗庭園を日本各地に幾つも造り、禅芸術の美の基準を定め、その後の日本文化の形成発展に大きな影響を与えました。     恵林寺は開創以来、代々この夢窓国師の弟子たちが天皇の綸旨を受けて住職を務め、国師の手になる禅宗庭園を護りながら、高い文化的な教養を布教の中心に置いてきました。 この伝統は、恵林寺の名前をいっそう高めた戦国武将武田信玄にも受け継がれ、武田信玄は、美濃から当時最高の禅僧の一人であった妙心寺派の快川国師を招き、恵林寺を自身の菩提寺に定めました。こうして、武田信玄と快川国師の二人のもとで恵林寺は、多くの優れた禅僧を輩出する黄金時代を迎えました。     戦国最強と謳われた武田信玄は、優れた武将というだけでなく、和歌を嗜み、漢詩を詠み、茶の湯に通じ、禅に傾倒して坐禅修行に励み、優れた禅僧を招いてその指導を仰ぎ、高い教養と深い宗教的な感性をそなえ持った、第一級の文化人という顔を持っていました。     この信玄亡き後、武田一族は滅亡し、恵林寺も一度は戦乱の中で兵火にかかって焼滅してしまいましたが、戦国の戦乱を平定し、天下を統一した徳川家康の庇護のもとで、復興を果たします。 開創以来の伝統にしたがい、この復興の道程においても恵林寺は、代々宗教家としてのみならず文化的、芸術的に高度な教養を兼ね備えた一流の禅僧たちが住職を務めてきました。     今日においても、恵林寺の住職は、長い年月にわたる修行を通じて別格の存在として認められる老師という立場の僧侶のみが務めることになっています。 こうして恵林寺は、夢窓国師自作の恵林寺庭園をはじめ数多くの貴重な文化財を護りながら、坐禅や茶の湯、寺子屋教育などの文化的発信を続けているのです。  

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