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禅寺としての恵林寺 ― 恵林寺住職 古川老師
THE MATCHA CLUB コラム「恵林寺を訪ねて」第3回。恵林寺ご住職の古川老師に、禅寺の喫茶が果たした役割について伺いました。 山梨県甲州市塩山にある乾徳山恵林寺は、開創を1330年にさかのぼる臨済宗妙心寺派の禅の名刹です。 開山は、夢窓国師です。1275年に生まれ、鎌倉時代の末期から南北朝時代を経て、室町時代に至るまでの、戦乱の時代に生きた夢窓国師は、激動のただ中にあって数多くの優れた弟子を育てあげ、生前・没後あわせて七人の天皇から国師号を授るなど、時代を代表する禅僧として知られています。 国師はまた、歌人として和歌に優れ、漢詩人としてもその名を歴史に残していますが、それ以上に、特に作庭家として卓越しており、世界遺産にも指定されている京都の西芳寺(苔寺)、天龍寺をはじめとする禅宗庭園を日本各地に幾つも造り、禅芸術の美の基準を定め、その後の日本文化の形成発展に大きな影響を与えました。 恵林寺は開創以来、代々この夢窓国師の弟子たちが天皇の綸旨を受けて住職を務め、国師の手になる禅宗庭園を護りながら、高い文化的な教養を布教の中心に置いてきました。 この伝統は、恵林寺の名前をいっそう高めた戦国武将武田信玄にも受け継がれ、武田信玄は、美濃から当時最高の禅僧の一人であった妙心寺派の快川国師を招き、恵林寺を自身の菩提寺に定めました。こうして、武田信玄と快川国師の二人のもとで恵林寺は、多くの優れた禅僧を輩出する黄金時代を迎えました。 戦国最強と謳われた武田信玄は、優れた武将というだけでなく、和歌を嗜み、漢詩を詠み、茶の湯に通じ、禅に傾倒して坐禅修行に励み、優れた禅僧を招いてその指導を仰ぎ、高い教養と深い宗教的な感性をそなえ持った、第一級の文化人という顔を持っていました。 この信玄亡き後、武田一族は滅亡し、恵林寺も一度は戦乱の中で兵火にかかって焼滅してしまいましたが、戦国の戦乱を平定し、天下を統一した徳川家康の庇護のもとで、復興を果たします。 開創以来の伝統にしたがい、この復興の道程においても恵林寺は、代々宗教家としてのみならず文化的、芸術的に高度な教養を兼ね備えた一流の禅僧たちが住職を務めてきました。 今日においても、恵林寺の住職は、長い年月にわたる修行を通じて別格の存在として認められる老師という立場の僧侶のみが務めることになっています。 こうして恵林寺は、夢窓国師自作の恵林寺庭園をはじめ数多くの貴重な文化財を護りながら、坐禅や茶の湯、寺子屋教育などの文化的発信を続けているのです。
禅寺の喫茶が果たした役割 ― 恵林寺住職 古川老師
THE MATCHA CLUB コラム「恵林寺を訪ねて」第2回。恵林寺ご住職の古川老師に、禅寺の喫茶が果たした役割について伺いました。 喫茶の習慣が日本にやって来たのは、記録によれば、天平元年(729)に聖武天皇によって仏教儀式として用いられたものが最初だとされています。 その後、最澄が唐から茶の種を持ち帰って比叡山に植えたといわれていますが、本格的に日本に定着させたのは、禅僧である栄西です。栄西は、建久2年(1191)に茶の種を持ち帰って筑前の背振山に播き、さらに建保2年(1214)には、源実朝のために『喫茶養生記』を著しています。 栄西はまた、お茶を飲む時に、粉末にしたお茶を茶筅で混ぜる抹茶の飲み方も日本に伝えました。そして、この栄西が伝えた抹茶が文化として定着し、茶の湯の道として日本独自の深化発展を遂げ、千利休を経て世界に広まりました。 茶の湯の道と禅との深い関わりは、このように、栄西に始まります。抹茶の飲み方の源流は中国ですが、今日世界中で嗜まれている抹茶もまた、栄西によって始まるのです。栄西は、日本では「茶祖」と讃えられています。 さて、喫茶の習慣は、薬用として、儀式用として、そして嗜好品として日本に定着しましたが、日本独自の進化を遂げた「茶の湯」と禅の関わりは、その後も続きます。 茶の湯の道を「佗茶」として完成させたのは、堺の町衆である武野紹鷗と千利休ですが、紹鷗も利休も、ともに禅僧に就いて厳しい修行を重ねました。「佗茶」のもつ深い精神性は、禅との出会いの中で育まれたものなのです。 それでは、なぜ、ただお茶を飲む、という単純な行為に深い精神性を持たせる必要があったのでしょうか? それは、修行を徹底的に日常化し、立ったり座ったり、食事をとったりお茶を飲んだりといった、あたりまえの一挙一動にも気を抜くことなく悟りの契機を探し求める、という禅の精神に由来します。 仏教の修行は、瞑想を中心にして行われますが、どれほど日常生活を削り、瞑想の時間に充てるとしても、そこには自ずと限界があります。禅はここで発想を逆転し、日常生活のあたりまえの動作の中に高い集中と緊張をもたらし、日常の全体を修行化したのです。 その結果、日常の一挙一動だけではなく、茶碗や茶釜、茶杓や水指に始まり、茶室、路地...単なる喫茶の道具もまた、修行のための深い精神性を反映し、高度な洗練と芸術性を持つに至ったのです。
日本の喫茶の歴史 ― 恵林寺住職 古川老師
コラム「恵林寺を訪ねて」第1回。ご住職の古川老師に、日本の喫茶の歴史や禅の精神について伺いました。 お茶を嗜む習慣は世界中にありますが、日本人ほどお茶を愛し、味覚を楽しむだけではなく、器や道具、そして建物や庭園、生活習慣までこだわりを持って徹底的に磨き上げ、深い精神性を加えながら、芸術文化に、さらには倫理観や人生観にまで高めていった民族はありません。 『八右衛門座敷』の控室が並ぶ廊下 私たち日本人が喫茶の習慣を学んだ中国にも、アフタヌーン・ティーの文化を世界に広げた英国にも、優れた喫茶の文化があります。 しかし日本では、最初は宗教的な儀礼や薬としての使用を目的として輸入されたものの、その後、室町時代に村田珠光によって精神性を重んじる「佗茶」が始められると、千利休によって「茶の湯」はさらに深められ、単なる文化の枠を超えて、人の生き方に深く関わる「道」として完成されていきます。 恵林寺所有の天目茶碗 「茶の湯」の修行とは、ただ湯を沸かし、茶を点て、客をもてなすだけではありません。磨き上げ、様式化された簡素な振る舞いを通して、自分自身の心を見つめ、自分の心の中に潜む欲望や執着と立ち向かうのです。 単純で簡素だからこそ、ちょっとした動作、ちょっとした間合いの中にその人の心がありありと現れます。 恵林寺の茶室「一个亭(いっかてい)」 相手が誰であろうとも、媚び諂いはおろか、気負いすらあってはなりません。いついかなる時にも無心の境地で自然に振る舞うこと、これが茶の湯の修行が目指すところです。これを体得するには、生涯をかけた修練が必要です。 「茶聖」と讃えられる利休は、若い頃から一流の禅僧に就いて厳しい修行に励み、禅の玄旨を体得していました。そして禅に傾倒していた利休によって、日本の茶道は禅の精神とひとつのものに成りました。この境地を「茶禅一味」といいます。 古川老師の凛とした佇まい 禅の精神は、一言で言うならば、余計なものをすべて捨て去るということです。坐禅をするときには、すべての雑念を捨て去って、純一無雑の集中に入ります。 古来、禅寺でお茶が好まれたのは、薬用として身体を健やかに保つだけではなく、眠気を払い、雑念を除き去って瞑想に集中するためなのです。 MATCHA Lab の皆さんは、完全無農薬のお茶にこだわっているのだとお聞きしました。お茶を完全無農薬で生産することの難しさは、良く知られているところです。 MATCHA Lab スティック抹茶を茶室「一个亭」にて 食の安全ということに関心の高まっている今日、こうした試みは高く評価されるべきでありますし、それ以上に、余計なものを除きさり「無雑」であること、そして「自然」であることを目指す「茶禅一味」の精神にもかなっていることだと思うのです。